市民の会の思い出/杉山若江

私の生涯学習は30年前「かがやく」の創刊編集から始まりました。当時取材に行っても生涯学習と言う意味が分からない方が多く、「障害」と間違えられ「一生涯勉強しようと言う意味です」と言っていました。人は学び行動することによってひかり輝くの願いを込めて、情報誌の題は「かがやき」でなく「かがやく」とこだわり、木下元市長に揮毫(きごう)をお願いしました。

その当時まだなじみの薄い「生涯学習フェスティバル」を広めていくのに、市役所の屋上からは「生涯学習フェスティバル」と懸垂幕が吊り下げられますが、市役所だけでは市民の皆さんが目にすることがほとんどありません。そこで考えたのが、市内何か所かに横断幕を飾ったら市民の目が向き、認知されるのではないかと思いつき、作ろうと思いました。でもどうやったら安価でできるのか考え、最初は池袋に布地を買いに行き、市内の縫製業の方や一般の主婦に四方を縫って頂き、御礼は舞台に飾った鉢花でした。

題字は知り合いの書道の達人にお願いし、紐で結びつけるハトメは生涯学習の職員の方が穴を明けて下さいました。そんな手作り感あふれる横断幕も時代と共に業者が作る立派な横断幕になっていきましたが、毎年11月になると、市内の何か所かに大きな横断幕が設置されるようになり、入間市の名物になっていきました。

生涯学習フェスティバルで思い出すのは、実行委員会の会長が市民の会の市民で、副会長が行政の方と市民の会から2名選ばれました。皆仲良く喧喧(けんけん)諤諤(がくがく)の会議の後は、夜遅くまで市役所の5階和室で作業をしたものでした。

忘れないのは2001年第7回に講演をお願いした、【NHK手話ニュース845】に出演していた丸山浩路さん(写真右の方)です。ボランティアで集まるスタッフが一生懸命なのに感動して下さり、「終わったら皆さんでお茶を飲んで下さい」と出演謝礼を寄付して下さいました。他のスッタッフから「謝礼を寄付して頂くなんて、前代未聞だ」と言われてしまいました。勿論皆でお茶をしました。

市民の会が打ち出した事業は沢山ありましたが、当時の市民団体との会議で、役所の事業を宣伝するにはもちろん市報がありますが、市民が各種の事業を実行するのに宣伝媒体がチラシを配布する方法しかありませんでした。そこで市民のための掲示板を作ろうと思いました。何をするのも経済的余裕が無いのでこれも全てボランティアでお願いしました。

設置場所6ヶ所は市の土地で許可される場所です。大きなガタイは市内の公園に遊びの遊具を作っていた【入間遊び場づくり協会】の会員で、市民の会に在席していた曽根直行さんにお願いし建立、【生涯学習掲示板】の題字は、これも市民の会に在席していた増岡達也さんの素敵な字で飾りました。

掲示板の周囲を飾ったのは市民の方々に『生涯学習発表の場です』とお願いすると、皆さん快く引き受けて下さいました。向陽台団地から入間市駅に抜ける場所と、富士見公園はトールペイントの絵、新しきを知る公園は向陽高校の陶芸部、アミーゴ近くは入間おやこ劇場の子供とあんず幼稚園の陶芸部が作った可愛い動物、藤沢桜公園は組み木の会、金子駅はミラクルステンドグラス。どの掲示板も世界に一つしかない、生涯学習掲示板の傑作が出来ました。

講演会の企画もしました。小学校の同級生が資生堂の秘書室長だったので同窓会の折に、
「資生堂の名誉会長の福原義春氏の講演なんて出来ないかなー」
「入間市で講演をして貰えないか、でも謝礼が出ないんだけど」
と無謀なお願いをしました。なんて図々しい事をお願いか。
でも、同級生は
「ボランティアなら大丈夫かも」
私はビックリしてしまいました。

私は銀座の資生堂に挨拶に行きました、勿論手土産は狭山茶です。さて天下の資生堂で有名な福原氏です。日本中イヤ世界中に行かれている方、入間市には立派な会場がありません。そこでわざとリサイクルした建物の、アミーゴを会場にしました。高級車で来場かと思いきや、西武線の電車で来てくださいました。全然偉ぶらない姿に本当の偉い方はこうなんだと思いました。そんな偉人の偉ぶらない姿から勉強するという事を学び、己は縁の下の力持ちで行くことが大好きになっていきました。

その後【市民のいるま塾】を立ち上げて1年に1回の塾は、スタッフのアイディアや熟知していることから、受講生が仲間の会を作ったり、子育て中のお母さん達の勉強会、スーパーのチラシのどこを見ると買い物がお得なのか、又証券会社の方を講師にしたお金の使い方、その頃AETとして米国からきていた青年に、米国の子育てやお金のお使い方など、今でも面白い内容だったと思います。

市民の会が何年か過ぎた頃議事録は順番で作ることになり、皆がパソコンを使えるようにと、パソコン塾に通いました。その後市でもパソコン教室を作り誰でもがパソコンを習える勉強会の募集が出来ました。現代のように子供でもスマホが扱える時代ではありませんでした。最近の市報は何もがQRコードから情報を得るのが当たり前になっている。若い年代の方と違い、昔はパソコン教室を開いてから普及されていきました。

市民の会に在席して12年も経つと、楽しかったメンバーが次々と去り、会議に出ても新しい方達から、昔のことと言われるようになりました。ダグラス・マッカーサーが言われたことですが、「老兵は死なずただ消え去るのみ」の言葉が身に沁みて分かるようになりました。私はお世話になり成長させて頂いた、会を辞めることにしました。会が出来た頃松永会長が、「市民の会の役割は市民と行政のパイプ役、責任は私がとる」のお言葉に励まされ色々挑戦できたのだと思います。

そして私は次のステップであった、万燈祭りの子どもの遊び場とキャンドルを灯すファンゴマッシェに繋がっていきました。これも市民の会で培った「市民のために」があって、仲間と楽しくやりがいのある事を18年も継続できたのでしょう。今はこれも卒業をしました。

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